タヒチ島は大小の二つの島が地峡でつながってヒョウタンのような形をしている島である。大きい方がタヒチ・ヌイ、小さい方がタヒチ・イティと呼ばれている。
火山性の山がちな島で、最高峰は標高2,241 mにも及ぶオロへナ山。島の周囲をサンゴ礁が取り巻き、火山性特有の黒い砂浜が多いのが特徴である。
隣のモーレア島までは18kmで高速船で30分、飛行機で7分。
歴史
1791年よりポマレ王朝始まる。
1836年フランス人宣教師2人を国外追放。
1842年9月9日 - フランス太平洋艦隊の司令官デュプティ・トゥアール(49)がタヒチ島の女王ポマレ4世に対し、タヒチをフランスの保護領とする条約を締結させる。
1843年11月5日 - フランスが、タヒチの領有を宣言する。
1847年 - ポリネシア(ソサイエティー諸島、マルケサス諸島、ツモアツ諸島 等)、フランスの保護領土として承認される。
1880年8月29日 - タヒチ国王ポマレ5世によって主権譲渡を宣言、フランスの植民地になる。
1914年9月17日 - 第一次世界大戦時に通商破壊作戦中のドイツ帝国海軍のマクシミリアン・フォン・シュペー司令率いるドイツ東洋艦隊の襲撃によりパペーテを艦砲射撃。(パペーテ砲撃)
1957年 - フランス領ポリネシアとして第二次世界大戦後、正式に海外領土となる。
1995年6月 - 当時のフランスの大統領であったシラクは、ムルロア環礁における核実験の再開を発表。タヒチでは住民の抗議集会が暴動に発展。
政治
フランスは、自国の領土に編入して以降、島を近代的なリゾート地として売り出し、観光地として世界に名だたる場所へと変えていった。
フランス政府は、核実験を島民に納得させるために様々なメリットを力説した。観光業による収入の増加と、核実験絡みによる経済援助や仕事を供給し、島民の台所を潤わせることである。しかし、同時にその代償として、核実験によって美しい珊瑚環礁を破壊し、島民のプライドを奪っていったといえる。一例として、それまで公用語として島民が使っていたタヒチ語の使用を禁止し[要出典]、公の場や子供が通う学校などでもフランス語だけを使用するよう強制したことが挙げられる。自治権の拡大や独立を求める運動は起こるべくして起こった。第二次世界大戦後、タヒチ人政治家であるプーヴァナア・オオパ(ポウヴァナア・ア・オオパ)の独立運動は有名。1991年、首都パペーテでデモ隊と憲兵隊の衝突が起こる。1995年9月、核実験に反発した仏領ポリネシアの住民達は数万人に達するという大規模なデモ隊を組織。タヒチ島の国際飛行場や首都パペーテにある警察本部を襲い、投石や放火といったこれまでにない激しい暴動を行った。
2004年6月、フランス領土となって以来初めて先住民族として行政長官に就任したオスカー・テマルは、フランスからの独立を主張し、観光業を軸にフランス依存の経済体制から脱却することを提唱した。
2006年6月26日、第2回フランス・オセアニア首脳会議の際、フランスのシラク大統領は、大多数のタヒチ島民が独立を望むと思わないと語った。
非核とフランスからの独立を目指す活動をしている非政府組織(Non-Governmental Organizations, NGO)として、テティラヒ・ガビリエル(Gabriel Tetiarahi)が代表の「ヒティ・タウ」(HITI TAU)、アンリ・ヒロの創設したグループ「テマナ・テ・ヌナア」がある。
住民
ほとんどがポリネシア系。白人や華人の住民も少数いる。仏領ポリネシアのうち、住民の75%がタヒチ島で生活している。
出身者
マラマ・ヴァイリュア - サッカー選手
ファブリス・サントロ - テニス選手
コンラッド・L・ホール - 撮影監督
カリーナ・ロンバード - 女優
ウィキペディア参照
水中ハウジングホヌビジョン
デジタルカメラ、ビデオカメラ用水中ハウジング販売店 Honu Vision

